家族のページ (2-1) 


   「ニューヨークの風」             中村 祐  

 一寸先は闇だと言う。でも実際には明かりが見える事の方が多い。
六十年を生きてきて、私にも多少の波瀾はあった。あるにはあったが、そのどれもが闇と言える程のものではなかった。殆んど自分の手に叶う程度の出来事だったし、手探りのむこうにいつも何となく明かりを感じていた。
 しかし二〇〇一年九月十一日の事件だけは、どうあがいてみても私の手に叶う事件ではなかった。崩落する貿易センタービルの映像を見ながら、果てしない闇の中に墜落して行く自分を感じていた。
 息子が無事であればもうとっくに連絡が入っているはず。テレビの映像は、私たち家族の微かな期待を粉々に打ち砕いてしまった。
 事件発生から五日後、闇の中に何の明かりも感じないままニューヨークに向かった。一睡もしないままケネディー空港に降り立つ。頭の中は白々と冴え渡っているのに、胸の中の闇は一層深みを増していくようだった。
 あわただしく身元確認の為に病院を廻った。マンハッタンに二十五、隣のニュージャージーに十三、それぞれの病院に負傷者が収容されている。その中にひょっとして息子が居るのではないだろうか。僅かな望みは病院を後にする度に絶望に変わっていった。
 背を丸めて病院を出ようとする婦人とすれ違った。左手にしっかりとハンカチが握られている。息子さんだろうか、それともご主人だろうか。たった一人で、今日はいくつの病院を廻ったのだろう。入り口の柱にもたれて暫く思案をしている風だったが、やがて暮れ始めたマンハッタンの街に向かって歩き始めた。
 夕暮れの人混みに紛れてしまえば、誰も彼女の悲しみに気付く人はいない。受付で息子を探している旨を伝えると多くの人々が「グッド・ラック」と言ってくれる。夕暮れの人並みに溶けていく彼女の背中に、思わず「グッド・ラック」と呟いた。

 今年十月、妻と共に再びニューヨークを訪れた。
 二年前には近付く事も許されなかった『グランド・ゼロ』に立った。ぽっかり空いた穴は何事も無かったように見える。瓦礫の一つも残されていないせいだろう。それとも晴れ渡った青空が余りに明るいからなのかも知れない。二年前の事件の日もこんな青空だった。
 遅々として進まない行方不明者の鑑定作業も気に掛かる。メディカルエギザミナーの主任技師は、「最新の技術をもってしても、すべての検体の鑑定が終了する迄にはまだ十八ヶ月を要する」と言う。現在百名の人々が、何らかの分野で関わりながら鑑定作業に取組んでいるそうだ。隣接するメモリアルパークには鑑定を待つ一万五千余の検体が冷蔵保存されている。
 待とう。二〇〇五年まで待とう。そう覚悟をきめた。
 ニューヨーク滞在最後の日、メトロポリタンミュージアムからホテルまでの帰り道を妻と二人で歩くことにした。薄曇りだった空は夕暮れが近く、町はミルク色に覆われていた。枯れ始めた街路樹が揺れて、少しだけ風がある。マンハッタンの地面を確かめるように、ゆっくりと歩いた。息子もこの風に吹かれたに違いない。ウインドーの明かりに浮かぶ人の波をかいくぐり、黙ったままにじんで見える街の明かりに向かって、ひたすら歩き続けた。


季刊 浪花(NANIWA NEWS) 45号(2004冬) より転載
文中 「今年十月」とあるのは昨2003年10月のことです。(編者)
(収録2004.2)

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