「中国新聞」 2003.9.10 記事

(伊東次男様より、昨年の記事ですが、現在も同じ心境であり、よく書かれていると  のことで手記に代わるものとして提供されました。)

2つのグラウンド・ゼロ      兄・子奪った究極の暴力

 広島市(註:一部略)の伊東次男さん(68)は、元銀行員らしく努めて冷静に話した。それでも時折、涙声を抑えきれなかった。

 「小指の一本でもあれば・・・。遺骨はまだ見つかっておらず、心の整理はつけられないんです」
妻の瑞子さん(65)と朝晩手を合わせる仏壇のそばには、三十五歳で逝った和重さんの誕生から折々の写真をならべる。いずれもはつらつとした表情で、生前の人柄をしのばせる。矢野小・中、城北高、慶応大を経て富士銀行(現・みずほ)に入社。1998年にニューヨーク支店に赴任し、当時は米州経営管理部の調査役に就いていた。
 あの瞬間、伊藤さんは自宅でテレビニュースを見ていた。息子が働く世界貿易センタービルに、航空機が突っ込む場面が飛び込んできた。東京の本店に電話をすると、和重さんが「今から避難する」と連絡してきたと伝えられた。そのオフイスは、高さ419bもある双子ビルの南棟82階。北棟に続き15分後にハイジャック機に狙われた南棟は、突入の59分後に崩落した。
 現地入りがかなったのは4日後。「どこかで生きている」。両親らは、出社の際に着ていたと聞いた水色のポロシャツ姿の息子の写真を手に病院をくまなく回った。助かった同僚は70階まで降りたのを見たと証言していた。翌月にも渡米。鉄とコンクリートの無残ながれきを見ても、息子の死を納得できなかった。
 「私らの誕生日にはどこにいても電話をくれる子でした。人にも優しかったと、せめて知っただけでも・・・」。瑞子さんはそう言うなり、ハンカチを握り締めた。
 ニューヨーク州最高裁は昨年一月十四日、和重さんの死亡を宣告。三月九日、郷里で出棺なき
葬儀となった。九月十一日、両親は千羽鶴を携え、「グラウンド・ゼロ」と呼ばれるセンター跡地での追悼式に参列した。
 
「私の父と亡き母の悲しみ、あれほどお参りして祈っていた気持ちが本当に分かります」。仏壇がある部屋のかもいには、兄(註:次男様の兄上)で長男弘さんの学帽姿の写真もあった。
 兄は二十世紀の「グラウンド・ゼロ」、爆心地約九百bの広島一中(現・国泰寺高)で被爆した。
十二歳だった。父秋男さん(92)に代わり、宏さんの命日に当たるこの九月一日、中区の平和記念公園にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影と名前を登録した。
 
二世代にわたり家族をうちのめした二つの非情な「グラウンド・ゼロ」。伊東さんはこの二年間反すうしてきた事柄を見つめるように語った。
 「戦争、テロがない世界は誰も共通の願い。私も妻も祈っているのは子どもが帰ってこい、その一点。あまりに個人的かもしれません。しかし個の思いが大事にされてこそと考えるんです」
 米英軍のアフガニスタン攻撃は、ニューヨークで接した。テロ首謀者の処罰は当然。同時に罪もない子どもや、自分らのような家族が出ると思うと・・・。答えは今も見出せないという。「九・一一」後も世界各地でで噴きだすテロに「慣れるのが怖い。慣れると怖さが分からなくなります」と顔をゆがめた。
 二つのグラウンド・ゼロは、殺される一人ひとりの未来、家族の癒えぬ悼みを顧みない人間の恐ろしさ、想像力のなさを告発している。
                        
 (文:中国新聞 編集委員 西本雅実氏)


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